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ゼロから創る「地域経済」 印刷
2011年 8月 19日(金曜日) 10:51

  猛暑の兆しを見せるなか、着々と被災地では復興に向けての動きがすすめられている。そこで、前号に引き続き、東日本大震災後の全体的な動きをウォッチしながら、被災地で活躍する〝復興キーマン〟たちの取り組みをレポートしたい。被災地復興は猛暑のなかにあっても懸命につづけられている。

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ガレキのなかから伸びるヤツデの葉。震災後も自然は何事もなかったかのように生きている

脱原発をめぐる動向

まずは東京電力福島第一原発の事故の動向から見てみたい。大震災発生から100日以上が経過したにもかかわらず、原発からの放射性物質の漏洩は今なお継続しており、事故収束のメドはついていない。期待されていた「循環注水冷却」も相次ぐトラブルに見舞われている。夏を迎えて現地で働く要員の疲弊も心配だ。今回の事故は国内問題に止まらない。「FUKUSHIMA」原発事故の波紋は、広く地球規模で拡散したおり、各国のエネルギー政策に諸課題を投げかけている。 

国際原子力機関(IAEA)の閣僚級会合がウィーンで開かれ、6月24日に閉会したが、議長総括では津波や地震など重大な危険の発生を見据え、原発の安全基準を強化する必要性が指摘された。また、加盟国に対し、国内の原発の安全評価をして報告するよう求める場面もあった。現在、世界では約440基の原発が稼働(休止中含む)しており、約80基が建設中、約90基が新規に計画されている。新興国が経済成長を支える電力確保のため建設に乗り出すケースが多いが、今後、その動きがどうなるかも注視しなければならない。

福島原発事故以降、一部の国は「脱原発」にカジを切った。脱原発にせよ原発維持にせよ、既存の原発の安全確保は最優先課題であり、わが国は福島原発における負の経験を世界のエネルギー政策に生かす責務を負っている。日本に課せられた課題は大きい。 

再生エネルギーへの期待感

原発事故以降、再生可能エネルギーや自然エネルギーに注目が集まっている。が、自然エネルギーと一口にいっても、運用段階になるといくつもの障壁がある。たとえば、北海道紋別郡興部町では01年に1億9000万円をかけて風車を建てたが、2010年10月に停止してしまったという。その理由は町債の返済に利益を回せなかったこと、あわせて部品の劣化にともなう修理費を捻出できなかったことなどだそうだ。 

太陽光発電も多くの課題を抱える。たとえば100万㌔㍗の発電電力が必要な場合、原発ならば0・5平方㌔の敷地でいいが、太陽光発電となると58万平方㌔(山手線内側相当)が必要となる。やはり「脱原発」には、節電型のスマートグリッドや天然ガス利用のガスコージェネレーションなど活用しながら、中長期的なプランを立てる必要がありそうだ。

発送電分離で電気料金が下がる!? 

今後のエネルギー問題を考える上で、発送電分離ができるかどうかは非常に重要になってくる。枝野幸男官房長官は5月16日の会見で、東電の事業形態について発電と送電部門の分離は「選択肢として十分あり得る」と明言したが、電力業界は「電力の安定供給、経済性、エネルギー安全保障などを考えると今の体制が望ましい」と主張した。

発送電分離とは電力会社から送電部門を切り離し、そこに電力を送る発電事業者間で競争させれば電気料金を引き下げられるというものだ。さまざまな事業者が接続する送電網は、公的な性格が強まることになり、太陽光や風力、地熱など再生可能エネルギーを大量に送電網に接続しようという政府の地球温暖化対策との整合性もとりやすくなる。発送電分離は電力会社の地域独占体制を崩して競争を促すだけでなく、再生可能エネルギーの大量導入の基盤になる可能性も秘めているのだ。 

風評被害はどうなるか

原発事故による風評被害の現状はどうなっているのか。東北の有力紙『河北新報』によれば福島の野菜、出荷制限が原発周辺を除きすべて解除になったという。福島県産野菜は地震と津波に加え、原発事故、風評被害の四重苦を受けた。全農福島の3月下旬の販売実績は、平年比でキュウリが32㌫、トマトが48㌫、アスパラガスが49㌫%にまで落ち込んだ。 

その後、野菜の放射性物質も暫定基準値以下や不検出が相次ぎ、徐々に出荷停止は解除された。安全性のPRの効果もあり、5月下旬の販売実績はキュウリ111㌫、トマト87㌫、アスパラ115㌫にまで回復した。

だが、小規模農家の経営を支える直売所は依然として苦戦がつづいている。風評被害をなくすためには「発がん性のリスクを検証した基準値の設置と、きめ細かい農家単位の検査体制の確立が必要だ」と県消費者ネットワークの佐藤一夫事務局長は指摘している。 

復興基本法がようやく成立

こうした状況にあって、6月20日に復興基本法が成立した。その骨子はつぎのとおりだ。一、復興資金を確保するため「復興債」を発行 一、地域限定で規制緩和などを行う「復興特区」を創設 一、内閣に復興対策本部を置き、復興担当相を新設 一、復興対策本部の下に復興構想会議を設置 一、原発事故災害を受けた地域の復興策を検討する有識者機関を設置 一、復興庁を速やかに設置。復興施策の企画・立案、総合調整、実施を行うとある。問題は復興際の発行とその償還財政をどうするか、だ。どうも消費税や所得税といった期間税をそれに当てようというのが政府の考えのようだ。一方で税と社会保障の一帯改革というテーマもある。試算によれば、2015年には42兆円(医療、介護手当て)の財源が必要になるという。仮に1㌫の増税が2・7兆円とすれば、最低でも5㌫増は確保したいところだ。とすれば、現行の5㌫の消費税は10㌫に。この増税がはたして日本経済にどう影響するか。その先行きに何があるのか。誰もそれを描けないでいるのだ、国債発行や増税が新たな停滞や不安をもたらすということもありうる。国家としてのリスクヘッジの手立てを示してほしいものだ。 

もちろん、被災地の早期復興のためには、復興庁の創設を急ぐとともに、この新たな官庁を「現地が主役」の司令塔にしなければならない。そして、復興庁の「本庁」は霞が関に置かず、仙台など被災した東北地方の拠点都市に設けることも検討すべきだ。東北大学をはじめとする地域の大学・研究機関の活用も重要になってくる。東北の「本庁」が霞が関に「出先機関」を置く。そんな「逆転の発想」で、現場優先、地域経済優先、地域住民優先の具体策を打ち出してほしいものだ。

省エネの代表格「LED電球」に注目が 

震災による不況ムードがつづいているが、なかには復興特需で盛り上がっているビジネスもある。たとえば「節電対策」製品の代表格である「LED電球」がそれだ。LED電球は通常の白熱球に比べて5分の1程度の電力しか消費しないスグレモノ。電球ひとつ当たりの価格が2000円前後とやや高価なため、これまで普及はゆるやかだったが、首都圏を中心にした電力不足が明確になるにつけ、人々の省エネ意識が高まり、注目を集めている。

カカクコムが4月に「節電に関する意識調査」を行ったが、その結果が実に興味深い。東日本大震災前の節電意識について「もともと意識していた」とする回答者は71・5㌫であったが、震災後では「意識が高まった」とする回答が97・2㌫に上った。 

また節電を意識して購入した製品をたずねたところ、震災以前では「テレビ」(41・9㌫)がもっとも高く、次いで「LED電球」(27・7㌫)という結果であったが、震災以後ではLED電球(26・8㌫)がトップとなり、「テレビ」は11・9㌫と震災以前と比べて30ポイント減少した。全体的にはほとんどの製品が大きくポイントを落としたなかで、消費電力が蛍光灯の半分であるLED電球が唯一震災前のポイント水準を維持したのだ。

また、調査会社のジーエフケーマーケティングサービスジャパンによれば、2011年5月第4週の電球市場のシェアは、LED電球42・9㌫、白熱電球の割合39㌫、電球形蛍光管18・7㌫。前年比ではLED電球の販売個数が2・9倍と急増中だ。地区別の販売動向では、計画停電が実施された関東・甲信越での需要がとくに高く、4月第2週のLED電球の数量前年比は181・2パーセント増と全国の同120・4㌫増を大きく上回っている。09年初めに7000~8000円台で推移していた平均価格が徐々に下落し、1000円台の製品も増えてきたことも普及の後押しとなっていると思われる。 

自転車、電動アシスト自転車も人気

大震災当日、数多くの人が徒歩による帰宅や都心部での宿泊を余儀なくされた。ところが、余震が落ち着いてから帰宅できたのは自転車通勤をしていた人だった。震災当日から、帰宅方法に困った人の自転車購入が急増し、駅前や人通りの多い路面店では自転車が飛ぶように売れた。ガソリン問題などの背景もあり、自転車通勤者がこのところ急増する傾向にある。 

自転車産業振興協会の2011年3月の販売動向調査月報によれば、自転車販売店1店当たりの販売台数は39・0台で前月比165・3㌫と急増した。千葉県のある販売店は「3月11日都内では、帰宅のため自転車がほとんど完売したとの情報が流れた。3月14日、電車が止まり都内に近い当店では、通勤のための安い自転車が売れはじめた。その後も新車の販売、万一に備えての古い自転車の修理が多く、例年になく数字が伸びた」と報告している。

また、ジーエフケー・ライフスタイルトラッキング・ジャパンは、4月に電動アシスト自転車の販売動向を発表した。2011年3月第3週の販売台数は1月第2週の約2・8倍を記録したという。その後、販売はやや落ち着いたが、自転車の最大需要期である新学期を迎えていることもあり、引き続き高い水準で推移しているという。ガソリンが不要で子どもを乗せることもできる電動アシスト自転車の販売は、エコおよび節約志向に後押しされ、右肩上がりの伸びを示してきたが、東日本大震災直後は通勤・通学の手段としてその需要は短期間で急速に拡大しつつあるようだ。 

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依然として処理がすすまないガレキ

 

 

復興に火を灯す薪ストーブ かき養殖業と「森は海の恋人」の再生!!

キーマン:畠山重篤さん(NPO法人森は海の恋人代表)

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「森は海の恋人」というキャッチコピーのもと、漁師でありながら植林活動をつづけてきた畠山重篤さん。その取り組みは日本のみならず、海外からも高く評価されている。そんな気仙沼が誇る漁業のキーマンは、震災後に何を思っているのか。復興に向けて歩み出した気仙沼の現状とともにリポートする。

牡蠣養殖が壊滅状態に 

三陸リアス式海岸に連なる宮城県気仙沼湾、その北方の唐桑半島にカキやホタテの養殖で知られる舞根(ルビ・もうね)湾がある。気仙沼駅から車に乗って約30分。山間の道が開けると緑の森に囲まれた穏やかな入り江が現れる。

舞根地区に車を乗り入れると、あたりに人の気配はなく、海は陽光で光り、波は静かで穏やかにないでいた。しかし、陸地には根こそぎ津波に持っていかれた家屋や施設の非日常的な風景が広がっていた。この地区は全52戸の世帯のうち44戸が流されるという壊滅的な被害を受けていた。 

ひとりの漁師がボートを出して沖に向かう。湾の中央ではクレーン船によるガレキの撤去作業が行われていた。海の様子を目視して戻ってきたその漁師に声をかけると「あの木の上の方を見てくださいよ」と10㍍以上はある木を指差した。その枝にガラスのブイが引っかかっていた。10㍍以上の津波が押し寄せ、集落を飲み込んだのだ。

白い髭をたくわえたその漁師の名は畠山重篤、50年近く牡蠣の養殖業を営むかたわら、NPO法人「森は海の恋人」代表を務め、舞根湾に流れる大川上流の室根山で木を植える活動を行ってきた。 

高台にある畠山さんの自宅は被災を免れたが、約70基あった養殖施設のほとんどは流された。入所していた気仙沼の福祉施設が被害を受けて、母親は帰らぬ人となった。一緒に養殖業を営み「森は海の恋人」の副理事長を務める息子の畠山信さんの自宅や事務局が流され、会員名簿も流失してしまった。「ガレキの撤去は海を再生するひとつのステップ。これから水質や衛生面など取り組む問題がたくさんある。海水の成分分析などに時間をかけながら様子をみなければならない」と畠山さんは話す。

「森は海の恋人」の誕生 

高台にあって被災を免れた畠山さんの自宅の裏手には、薪ストーブを中心とした手づくりの「集会場」がある。研究者やボランティアたちが日夜集まり、刻々と変化する被災地の情報交換が行われ、復興に向けたさまざまなアイデアがここから生まれている。

海の目視を終えて陸に上がった畠山さんは「集会場」の椅子に座り、森の木々が養った鉄が川に流れ、海を育む壮大なスケールの自然の営みについて話しはじめた。 

「沿岸域のいい漁場は、ほとんど河口にある。有明海でなぜノリがとれるかというと、筑後川のような大きな川があるから。栄養分が山から川を通じて流れてくる。塩水だけでは育たない。漁師は口に出していわないだけで、それはだれもが経験でわかっている。ところが、山や川、海の管轄は、林野庁、国土交通省、水産庁、県と分かれていて、縦割りの面倒臭い構造がある」と。

62年に気仙沼水産高校を卒業した畠山さんは、牡蠣の養殖業を父親から引き継いだ。ところが70年頃を境に赤潮プランクトンが大発生するようになり、白いはずの牡蠣の身が赤くなり、「血ガキ」と呼ばれて売れなくなってしまった。その原因は手入れされない杉山、農薬、除草剤、化学肥料の使い過ぎ、農業現場の畜産廃水、家庭からの雑排水、水産加工場から流される工場排水など、川の流域全体にわたる環境破壊にあった。さらに舞根湾に流れ込む大川河口から8㌔㍍の地点にダムをつくるという計画も持ち上がった。 

こうした気仙沼湾の環境破壊を懸念した畠山さんは89年に「森は海の恋人」をキャッチフレーズとして掲げ、大川上流の室根山でブナやナラの植林運動をはじめた。豊かな海に流れ込む川の流域にはかならず森があるという漁師の経験からこの運動は生まれたのだ。

さらに、北海道大学の松永勝彦名誉教授(四日市大学環境情報学部教授)が気仙沼湾で科学的な実証を行い、その生物生産量の約90㌫以上が大川が運ぶ養分で育てられていることがわかった。 

こうして運動は全国的に広がり、ダムの計画は中止され、川と海の再生に実を結んだ。20年以上前に最初に植林した場所には「牡蠣の森」と記された杭が打たれており、背丈をはるかにこえて、みごとに成長したブナがそびえているという。

アムール川が日本の漁場を豊かに 

海のなかの生態系は、植物プランクトンや海藻が増えることによって動物プランクトンが増え、魚が増えるという食物連鎖によって支えられている。植物プランクトンや海藻の栄養は、光合成によって供給される。それを担う葉緑素(クロロフィル)をつくるためには、鉄分が必要になる。さらに植物の生長に必要なチッ素やリンなどの養分を海のなかから供給するために、鉄分が重要な役割をはたしている。

鉄分はそのままでは粒子が大きいため、植物の細胞膜を通過できない。では、植物プランクトンが吸収しやすい鉄分はどこから供給されるのか。その源が森林だった。森林の腐葉土に含まれるフルボ酸が地中の鉄分と結びつきフルボ酸鉄という形になる。それが川を通じて海に流れ、植物プランクトンや海藻に鉄分を供給していることが研究によってわかってきた。 

この森が海を育む科学的な根拠を壮大なスケールで探ったのが、05年から09年にかけて行われたアムール・オホーツクプロジェクト(事務局・総合地球環境学研究所)という日本とロシア、中国との国際共同研究だった。研究の結果、オホーツク海と世界三大漁場のひとつである三陸沖の生産を支えているのは、アムール川が運ぶ鉄であることがわかったという。

アムール川はモンゴル高原東部のロシアと中国との国境にあるシルカ川とアルグン川の合流点を源に、中流部は中国黒竜江省とロシア極東地方との間の境界を流れている。ロシアのハバロフスク付近で北東に流れを変えてロシア領内に入り、オホーツク海のアムール湾に注いでいる。中国では別に黒河、黒水などとも呼ばれる。全長4444㌔㍍で世界8位、流域面積は205万1500平方㌔㍍で世界10位。日本の国土の約5・4倍の広さを持っている。岸辺の森から流れ出す栄養分が沿岸に藻場を作り魚を育むことを「魚付林(ルビ・うおつきりん)」というが、このプロジェクトはアムール川流域からオホーツク海を経て親潮域に至るまでの生態学的なつながりが「巨大魚付林」であることを証明した。 

アムール川流域には、海水中に溶け込む鉄の源となる広大な湿地と森林が広がっている。オホーツク海には真水が海氷となり、塩分が濃くなった海水が底に沈む熱塩循環がある。これが鉄を巻き込んで海流に乗って、北から親潮が来る三陸沖まで鉄を運ぶ。このためアムール川流域の環境がオホーツク海や三陸沖の漁場にまで影響を与えるのだ。

どうやら山と川、海とのつながりの中で豊かな漁場が支えられているのは間違いなさそうだ。しかし「林学をやっている人が水産学に口を出すのはありえない、隣の研究者が何をしているのかわからないという大学の縦割り研究では保全がすすまない」と畠山さんは指摘する。さらに「こうした学問の世界で縦割りの専門教育を受けた行政マンでは前に進めることが難しい」とも。 

復興のカギとなる木材加工技術

震災直後、気仙沼市の生活支援の立ち上がりが鈍く、業を煮やした息子の信さんは、みずから住民ニーズの把握と市内に入っているそれぞれの支援団体の連携に動いた。その結果、薪ストーブのまわりに支援団体が集まり、情報交換が行われるように。そして、それが実を結んで「唐桑ボランティア団」(http://karakuwa.net/)が誕生した。森は海の恋人、RQ市民災害救援センター、FIWC唐桑キャンプ、公益社団法人シャンティ国際ボランティア会(SVA)、気仙沼ボランティアネットワーク聖敬会、とちぎボランティアネットワーク、天理教災害救援ひのきしん隊の7つの団体が参加して、定期的に集まって情報共有を行い、支援のムダをなくして効率良く活動している。たとえば、大部分の産業が消えた気仙沼では雇用問題が深刻化しているため、「被災地ツアーを企画できないか」「NPOで事務職を雇用して派遣できないか」といったアイデアをつぎつぎと出しているという。 

そんなとき「集会場」に群馬からひとりの来客があり、復興への糸口となる技術を持ち込んできた。木材を熱処理することによって安定した品質を確保できるEDS工法という技術だった。開発者である㈱EDS研究所代表取締役の石井幸男さんは「林業では木を切る時期は冬期と決まっているが、この技術を使えばいつ切っても使うことができる。間伐材でも品質を安定化することができる」と。そのため、この工法を使えば、生材の利用率を50㌫から80㌫に高めることができるという。現在は「地元の杉をこの工法で加工して、住宅の復興と雇用確保に役立てることはできないか」と畠山さんを中心として、検討がすすんでいる。

海の再生力に励まされて 

津波の濁流に飲み込まれた後、海から生き物が消えた。畠山さんは「養殖業はもう終わりだ」と思ったという。が、1カ月が経つと、少しずつ水が澄み、小魚の姿が戻ってきた。その再生力に励まされた畠山さんは「森と川と海のつながりがしっかりしていて、鉄が供給されれば、カキの養殖は再開できる」という確信を得た。そして、あらためて「森は海の恋人」の理念を掲げて、復興に取り組んでいこうと考えた。

一時は開催が危ぶまれた「植樹祭」も、一緒に運動を続けてきた一関市室根町の第12区自治体の人に励まされ、岩手県一関市室根町の矢越山ひこばえの森で開催された。舞根湾に注ぐ大川の源流域にあたる矢越山の会場には1200人の参加者が集まった。畠山さんたちが育てた牡蠣が食べられる日を待ち望みたい。

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がれきの撤去作業が行われている舞根湾

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畠山信さんと「集会場」の薪ストーブ。ガレキのなかから信さんが拾ってきたもので、水や電気、ガスがストップした被災直後はこれで火を焚き、芋をふかして食料を自給したという



最後のひとりまでことを決めた石巻高校トレーニング室の避難所リーダー

キーマン:高橋信行さん(東日本大震災圏域創生NPOセンター代表)

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依然としてつづく避難所生活。その生活環境はお世辞にもいいとはいえない。だが、かぎられた条件のなかで、前向きに生きていけるような雰囲気づくりに努めているキーマンがいる。阪神・淡路大震災時にもボランティアを経験し、現在は気仙沼の地域づくりなどを展開してきた高橋信行さんだ。彼が石巻高校で展開しているボランティア活動に密着した。

子ども中心の避難所生活

宮城県石巻市の石巻高校では、5月の末で100人以上の被災者が避難生活を送っていた。50人近くが暮らしている校内のトレーニング室を訪ねると、ダンボールで区切られたプライベートのスペースや室内に設けられた遊び場に子どもたちの姿があった。 

避難所のリーダー、高橋信行さんは避難所の小社会の暮らしのなかで「子どもの大切さ」をみんなに呼びかけてきた。規則は緩く、飲酒も自由にできる。そのなかで「子ども」を中心として自律を大切にしてきた。

そんな避難所の消灯時間は早い。夜9時になると電気が消えた。どこからか子どもの「おやすみなさい」の声が聞こえ、それに応える大人たちの声が聞こえた。 

起床は朝6時。高橋さんの朝礼で一日が始まる。不登校の子どもに「無理に学校に行かせずに『休んでもいいんだよ』といってあげてください」とみんなに話した。

雇用支援のNPOも設立 

高橋さんはNPO法人宮城県地球温暖化防止活動推進ネットワーク(NetPAGW)の事務局幹事でもある。また、バイオマス産業機構東北支所のコディネーターも兼任しており、気仙沼を拠点にまちづくり活動も行ってきたが、3月11日、NPOの活動で石巻市を訪れていたときに被災して気仙沼に戻れなくなった。「これを地球の自然が与えた天命」と思い、そのまま避難先の石巻高校でリーダーとなって現在に至る。

阪神・淡路大震災でボランティアを経験した高橋さんは、若いボランティアたちの先輩格でもある。「ボランティアをやるなら継続してやることが大切。定期的に来ると信頼関係ができる。『心のケアやります』と看板を掲げてもだれも来ない。押しつけや与える立場ではなく、来させていただく、やらせていただくというスタンスをもってのぞんでほしい」と厳しくアドバイスする。一方で「ボランティアは現地に入って住民のニーズを的確につかんでいる。ところが、そうした情報をつなぐ人や組織がほとんどない」と嘆く。 

そして、被災者は「人をなくし、心をなくし、傷つき、生きなくてもいい、津波と一緒にいきたかったという無力感にさいなまれる」と。そして、いずれそういう人たちは避難所にいても動かず何もしなくなってしまう。だからこそ、そうならないための環境づくりが必要だ」と。その想いを胸に、高橋さんは「最後のひとりになるまで被災者たちを見送る」と話す。

そのために、高橋さんはここで被災地の雇用促進活動を展開するために、復興組織「東日本大震災圏域創生NPOセンター」(圏創)を立ち上げた。すでに現在20人近くのメンバーが集まっている。圏創では「キャッシュ・フォー・ワーク」(被災者雇用事業)として、女川でガレキの撤去作業を中心とした復興事業をすすめている。ガレキ撤去作業の労働時間は防塵マスクを装着しても「4時間」が限度、なかなか思い描くような雇用促進にはつながっていかないと残念がる。 

ところで。石巻高校では6月末で自衛隊による給食支援が終了し、弁当の配給となった。ボランティアによる炊き出しも現在は行われていない。高橋さんは自炊による食事ができるよう石巻市に求めているが、認められなかったそうだ。毎日の食事は文字通り生きる糧、一日でも早い被災者の食生活の充実が望まれる。 

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朝6時、石巻高校トレーニング室の避難所で朝礼に立つ高橋さん

最終更新 2012年 6月 18日(月曜日) 11:14