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ドン底からの復活を目指す!!〝復興キーマン〟たちの活躍!! 印刷
2011年 7月 01日(金曜日) 13:56

  東日本大震災以降、連日のように被害状況が伝えられている。とくに福島第一原発事故の影響は大きく、最近では生物濃縮などが問題視されるようになった。これは生物の体内に取り込まれた化学物質が、その濃度を高める現象のこと。そうなれば、太平洋沿岸の魚は内部被曝してしまい、それを食べる私たちにも影響が出ることになる。が、一方でヨウ素やセシウムは水溶性であり、生体内に取り込まれても新陳代謝で排出されるという見方もある。いずれにしても目に見えない放射性物質が相手であるだけに、明確な答えを出すのは難しそうだ。一方、原発問題を機にスマートグリッドや再生可能エネルギーの利用について、具体的な議論がすすめられるようになってきた。こちらは新産業の創出につながるので、大いに歓迎したい動きである。まずはそういった最近の震災による経済動向や政府の施策からチェックしたい。

2011070101

 
震災が招いた最悪の雇用情勢 

厚生労働省は5月25日、震災による雇用の状況(速報値)を発表した。まず就職相談件数だが、岩手、宮城、福島3県のハローワークが受け付けた職業相談は計30万1827件となった。離職票等の交付件数は11万1573件に上り、前年同期(4万6818件)の2・4倍である。

 

さらに雇用情勢に暗い影を落としているのが、電力不足とこれにともなう生産力の低下、そしてリストラの問題が浮上してきた。飲食店は営業時間を短縮せざるをえなくなり、工場では生産ラインが停止し蕫人余り﨟が起こっているのだ。第一生命経済研究所の永浜利広主席エコノミストの試算によると、東京電力と東北電力の供給不足率は最大前年比3・6精減で、その際、就業者数は約12万人減少するという。こうした雇用情勢は新卒の就職にも大きな影響を与えている。現に今春(10年度)卒業の大学生就職率(4月1日現在)は91・1精と過去最低になった。由々しき事態である。

 
原発問題で自然エネルギーが急浮上 

菅直人首相は日本の電力全体に占める自然エネルギーの発電比率(現在約9精)について「2020年代のできるだけ早い時期に20精とするよう大胆な技術革新に取り組む」と表明した。 

これを受けてか、ソフトバンクと北海道、神奈川、広島など19都県は5月25日、自然エネルギー協議会を7月上旬に設立すると発表。孫正義氏は再生エネルギーの比率に関して「2020年に30精を目指すことが必要だ」と指摘した。そのためには、再生可能エネルギーの全量買い取り制度、送電網への接続義務、休耕田などの用途規制の緩和などが必要だとした。 

その先進例となりそうなのが北海道稚内市だ。北国特有の強い風を利用した風力発電や太陽光発電などで電力需要の85精を賄っている。宗谷岬ウィンドファームの57基をはじめ、市内には全部で74基、7万6355礰竧の規模を誇る風力発電があるのだ。さらに、市では06年から大規模太陽光発電の研究も開始し、独立行政法人を誘致。おかげで発電量5020礰竧の太陽光発電システムを無償で手に入れたという。 

甚大な被害を被ったローカル線

東日本大震災による鉄道被害の復旧状況だが、5事業者12路線で運転休止だという(国土交通省の5月20日の報告)。 

とくにリアス式の海岸線を走るローカル線の悩みは深刻だ。たとえば、岩手県の第三セクター、三陸鉄道の復旧には180億円以上かかる見通しだという。そこで、甚大な被害を受けた岩手県の三陸鉄道や宮城県の仙台空港鉄道などは、国土交通省に対して復旧費用への補助の拡充など特別の支援を求める要望を行った。国土交通省は今後編成される2次以降の補正予算に支援措置を盛り込む方向で、被害の実態調査をすすめるという。

こうした厳しい被災状況がつづく一方、現地では着々と復興に向けた取り組みがすすめられている。そこで、今号では復興に向けて取り組むキーマンたちを地域ごとに取材。以下、その取り組みを紹介していきたい。 

港の近くで3代続く鮮魚店

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いわき市四倉町で3代にわたり鮮魚店を営む「大川魚店」。四倉海岸から直線距離で500神の距離にあるこの店にも津波は押し寄せた。50~60礼ほどの高さの浸水でショーケースが使えなくなり、商品の一部は廃棄した。 

その後、35礰離れた福島第一原発で事故が起き、家族で一時的に自主避難したが、3月20日以降、水道の復旧にあわせて店の一部を再開。物資不足で品薄だったころで、木板に「営業中」の紙を貼って店先に掲げ、干物や缶詰、佃煮などを販売した。冷蔵庫で無事だった商品は近くの避難所にも届けた。

今は店の半分くらいのスペースで営業をつづけている。自家製の干物、魚介類の粕漬、味噌漬をはじめ、中央卸売市場で仕入れた旬のカツオの刺身などが並ぶ。震災前は近くの港に水揚げされた近海物の魚も扱っていたが、今はそれがかなわない。 

「地元の人はやっぱり魚が好き。みんな地震で大変な思いをしたけど、うまい魚が食べたいと来てくれる。先行きは不安だが、できることをやっていくしかない」と話すのは、3代目の大川勝正さん。03年からネット販売を始め、初代が発案したという魚介類の粕漬「いわき七浜漬」など、独自に開発した商品を販売している。魚卵の粕漬は珍しく、酒粕で漬けることによってまろやかな味わいになるという。美しいいわき七浜の風景に思いを馳せ、港に活気が戻る日を願う。 

大川魚店 

10246・32・2916

http://www.ookawauoten.co.jp/ 

独自の創作かまぼこを販売

2011070103

いわき市は板かまぼこ日本一の生産量を誇る。それだけに、この津波で大打撃を受けたかまぼこ工場も多い。 

「シーフードケーキ」と称し、バラエティ豊かなかまぼこ製品を販売しているかねまん本舗もそのひとつ。観光バスを受け入れるなど、おもてなしマインドがイッパイの人気店だ。

津波は免れたが、停電と断水、設備の点検と整備のために休業を余儀なくされた。約1カ月後に製造を再開し、4月23日に店を再オープン。その間、冷蔵庫の在庫分を顧客や避難所に無料で提供した。火も水も使わずそのまま食べられるかまぼこは喜ばれたという。 

地震直後は原材料が入らず、廃業も頭をよぎったそうだ。しかし、同業者仲間の「建物も機械も残っているじゃないか。弱気になってどうする」との声に後押しされ、再開を決意した。

店内に置かれたノートには、お客さんからの励ましの言葉が綴られている。近隣の観光施設が津波被害を受けたり、原発の風評被害も影響して、観光バスの入店はまだまだ少ない日々がつづいている。それでもめげずに、専務の遠藤貴司さんは、「ホームページで商品案内をしたり、ブログをこまめに更新するなどして情報を発信していきたい」と意欲的。 

焼き抜き製法で魚のうま味を引き出し、風味を逃さないホットパック包装で提供されるかまぼこは、プリプリとした食感が特徴。インターネットや電話での注文も受け付けている。

かねまん本舗 

10246・39・3360

http://www.kaneman.net/ 

復興ブレンドで元気に

自家焙煎のコーヒー豆を販売するヤナイコーヒーのガラス窓には、「がんばっぺ いわき! ふるさと復興ブレンド」と書かれた紙が貼られている。 

震災で景気が落ち込み、事業停止や雇用状況の悪化などで人々がうつむいているなか、「自分にできるのはコーヒーで元気になってもらうことだ」と、店主の箭内正孝さんが発案。赤字覚悟の価格を設定して提供している。ブラジルサントスとコロンビアをブレンドしたサッパリとした風味のコーヒー。店主の心意気が伝わるからか、爽やかさを感じる味だ。

店は地震直後の3月15日から再開。水道の復旧は3月末までかかったが、焙煎はプロパンガスと電気があればできるので、店内はコーヒーの香りで満たされた。「開いてて良かった」と入ってくるお客さんも多く、暗くなった住宅街に灯りをともしつづけた。 

ふるさと復興ブレンドは店頭のみでの販売だが、そのほかのコーヒー豆はネットでの販売も行っている。

ヤナイコーヒー 

10246・28・9696

http://www.yanai-coffee.net/ 

復興の模様をブログで配信

東日本大震災の影響で、いわき市のアクアマリンふくしまは休業を余儀なくされている。建物自体の損傷はわずか(一部の水槽やガラスの破損)だが、地震による地盤沈下や液状化をはじめ、上下水道や地下の電気設備、ポンプ設備の破損、予備飼育施設「水生生物保全センター」の損壊など、広範囲にわたって被災した。そして、20万点もの生物の約9割が死んだり、流失したりしたそうだ。「手塩にかけて育ててきた飼育生物を失うのは辛い経験だった」と飼育スタッフは話す。 

そこで、アクアマリンふくしまでは生き残った魚を別の水族館や動物園に引き取ってもらい、館内では「スタッフ全員で泥やガレキの撤去、水槽内の掃除を行ってきた」という。ときには他県の水族館(新潟水族館、八景島シーパラダイスなど)のスタッフが手伝いに来てくれることもあるそうだ。そういった様子はアクアマリンふくしまの「アクアマリンふくしま復興BLOG」で見ることができる。

再開の目標は7月15日。この日はアクアマリンふくしまのオープン記念日でもある。「たくさんの方たちからご声援、お手紙をいただいている。なかには、わざわざ義援金を届けに来てくれた人もいる。その声に応えられるように頑張っていきたい」と意欲的だ。 

アクアマリンふくしま

10246・73・2525 

http://www.marine.fks.ed.jp/

津波に流された老舗の醤油蔵元、社員一丸となって復興を目指す!! 

津波被害で行政機能まで失われてしまった岩手県陸前高田市。この地で200余年の歴史を誇る㈱八木澤商店は、昔ながらの製法を大事にした醤油造りに励んできた。しかし、津波は無情にも同社の蔵や樽を流し去ってしまった。が、それでも同社は復興に向けて力強く立ち上がろうとしている。そこで、同社の河野和義会長にインタビュー。醤油造りと復興にかける思いを聞いた。

―醤油造りにこだわるのはなぜですか。 

河野 日本の醤油は、色、味、香りです。ジックリと時間をかけて発酵させるところに文化があります。しかし、地元の大豆を使って、昔のように2年かけて造ると、逆算すると1本3000円のコストがかかることがわかりました。しかし、売上げよりも先に、いまここで原点に返った醤油造りをしないと、次の代につながらないという思いがあり、実行に移したんです。

そうして世に出したのが「生揚げ醤油」です。岩手産大豆と小麦、長崎県五島列島の海水塩を使用し、100年以上使い込まれた気仙杉の大樽で2年かけて熟成させる商品です。出来上がったもろみは、古式梃子搾りという方法で旨みを逃すことなく搾り、火入れは醤油の特徴を損なわないよう通常よりも低い温度で行いました。 

なぜ挑戦したのかとよく聞かれますが、答えは簡単です。いかに安く物を売るかという流れに反発を感じたからです。大手と安売り競争しても地方の醤油屋が勝てるわけがない。値段競争に対するささやかな抵抗でした。

絶対に解雇しないという決意 

―今回の震災ではどのような被害を受けましたか。

河野 今回の震災で200年の歴史が詰まった土蔵や工場が流されました。社員43人のうち、25人の家が流され、研修生も含めて2人が亡くなりました。私の家も流されました。 

私は震災当日、東京に出張していたのですが、テレビで会社が流され、自分たちの車が流される光景を目の当たりにしました。しかし、4日後に戻ってくると従業員のなかで元気のいいのが「社長、避難所で膝を抱えていても気が狂いそうだ。なにかやらせてくれ」といってきたんです。

―実際に何かに取り組んだのですか。 

河野 竹駒町の高田自動車学校に仮設事務所を置き、そこから避難所に支援物資を届けてきました。幸い会社の車が2台流されずに残っていたので、その2台と送迎バスを使ったのです。まさに「200年の恩返し」のつもりで動きました。ガレキのなか、どこを走っていいかもわからない状態のなかで、明るく動き回る従業員たちの姿を見て、「お前たち全員、絶対に解雇しない」と強く思いました。

とはいえ、周りには廃業や解雇の嵐が吹き荒れていました。夫や子ども、祖父、祖母を亡くした方もいましたが、4月1日だけは集まってもらい、みんなの前に袋を掲げて「これなんだと思う、みんなの3月分の給料だ。遅れてごめん」といって、一人ひとりに渡しました。従業員たちは拍手して喜んでくれました。 

それからは物資輸送の最先端で動き回っていた息子に社長の座を譲り、9代目に就任してもらいました。物資の輸送支援は4月11日までつづけ、翌日からは会社のガレキの撤去作業を始め、再建に向けて走り回っています。

街全体の復興とともに再建へ 

―今後、どのように復興をすすめていきますか。

河野 陸前高田の中心部は、市役所も含めてすべての機能が失われました。だからこそ、これからは街全体の復興のなかで会社を再建しなければなりません。まずはここ陸前高田市を特区にして、小さな国をつくるぐらいの気構えでのぞむことが必要です。 

陸前高田は明治神宮をつくった気仙大工の町として知られています。この地方の気仙杉と気仙大工の技を使って、高台に公営住宅をつくるんです。各集落ごとに高台を置いて避難できるようにしておく。渋滞にハマって車ごと流された人もいたため、道幅は広くとるということを提唱したいと思います。

また、役場機能が失われ、壊滅状態になった陸前高田、南三陸、大槌町、山田町でコンテストを開くというのはどうでしょう。経済復興のために陸前高田でグリーンニューディール政策を前面に出すなど、4つのまちをそれぞれ特区にして、その復興までの過程を審査してもらうのです。世界中から審査員を招くことで、震災から復興するまちの様子を見てもらうこともできます。そうした仕掛けをつくることが、観光の復興にもつながると思います。 

もうひとつ夢があります。それはここに国際防災大学をつくり、本物のボランティア、市役所に頼らなくても、現場で即断即決できる災害時のリーダーの育成をはかることです。避難所の雰囲気もリーダーしだいで変わります。医者や看護師の不足を補うために、緊急医療の知識を持った人材を育成することも大切だと思います。

私は民俗研究家の結城登美雄氏と熊本県水俣市の吉本哲郎氏ともに、地域資源を有効に活用する「地元学」を提唱しました。水俣市では、水俣病にかかった人たちを語り部としてとして、次代に伝える取り組みをしていますが、この地震と津波の記憶もそうして受け継がなければなりません。 

八木澤商店

http://www.yagisawa-s.co.jp/ 

被災地と避難所に元気を届ける 地域新聞と現代美術家

住民の6割にあたる約3万6000人が被災したといわれる宮城県石巻市。厳しい環境下の避難所生活、思うようにはかどらないガレキや泥の撤去。そうした状況にあって、被災者を全身全霊で支援しつづける復興キーマンたちがいる。 

混乱のなかで壁新聞を発行!!米紙に取り上げられ話題に

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行政・生活情報などを伝える地域紙『石巻日日新聞』(石巻市双葉町)の社屋は、津波で浸水してしまった。しかし、記者たちは混乱のなかの6日間、手書きの壁新聞を発行して危機を乗り切った。その活動がワシントン・ポストの記者の目に留まり、同紙に取り上げられ話題になった。壁新聞は現在、米ワシントンにあるニュースの総合博物館ニュージアムと神奈川県横浜市の新聞博物館に展示されている。 

3月11日、石巻日日新聞の報道部員は当日の新聞の発行を終えて昼食をかき込み、2階にある仕事場で午後3時のミーティングまでの束の間の休息をとっていた。「約3分間の揺れだったが、とても長く感じた」と武内宏之報道部長は震災当時を振り返る。

津波は南側の海、東の北上川の2方向から街を襲った。市内の被災は、死者・行方不明者は5800人以上、6万戸を超える世帯に上った。 

そのとき、石巻日日新聞は「大型トラックなどが障害物になって、津波の直撃はまぬがれ、約1㌢程度の浸水で済んだ」という。だが「階下にある新聞輪転機の被害を調べにいくと、カラー機が水に浸かっていた。当分の間、輪転は動かないと見切りをつけた」と武内さん。被災直後に電気も止まり、記事や組版作業用のパソコンも使えなくなった。社屋の周囲は冠水で動きもとれなかった。だが「『だめだっぺ』というあきらめの声はなかった」という。

「ペンと紙がある。新聞は出せる」―。同社の近江弘一社長は手書きによる新聞発行を決断する。翌日から電気が回復した17日までの6日間、石巻日日新聞は壁新聞による報道を開始した。輪転機の紙ロールを切り取った新聞用紙に、まず社長が油性マジックで「お手本」を手書きする。それをスタッフたちが書き写して新聞をつくる。丘の上にある中学校や高校に設けられた避難所、コンビニ、職業安定所にそれを張り出した。最初は物珍しげに眺めていた被災者たちも、しだいに拍手で壁新聞を迎え入れるようになった。壁新聞は被災状況など、刻々と変わる市内の状況を伝えた。 

19日には社屋の電気も復旧、揺れの衝撃であきらめていた輪転のボタンを押すと奇跡的に起動した。ブランケット判2ページのこの日の新聞のトップ見出しは「皆でがんばっぺぇな」。自治組織で生活改善をはかる避難所の様子を伝えた。

震災当初は死者、行方不明者の名前を伝えていたが、途中で編集方針を変更して、表ページは復旧・復興のニュースを中心に伝え、裏面に被災情報を載せるように。「上を向いて歩こう、前を向いて復旧、復興の道を歩もうというメッセージを込めて編集するようにした」と武内さん。市民を元気づける、明るいニュースを中心とした編集に転換し、石巻赤十字病院で生まれた新しい命、被災者の出産のニュースなど明るい話題を取り上げた。 

石巻日日新聞は来年で創刊100周年を迎える。当初は「にちにち」新聞と呼ばれたが、戦後に地元の人たちから「ひび」新聞の愛称で呼ばれるようになり、それが名称として定着した。創刊者の山川清氏の言葉に「地域の回覧たれ」という言葉がある。100周年を来年に控え、武内さんは「原点に返った」と感慨深げだ。

石巻日日新聞 

http://www.hibishinbun.com/、

 
アーティストがボランティアを牽引

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ガレキを撤去するボランティアスタッフのなかに、「タノンティア」というロゴの入ったタオルを頭に巻いた若者たちの姿が。仙台出身の現代美術家、タノタイガさんの呼びかけで集まったメンバーによる、ボランティア(タノンティア)での活動のひとコマだ。家屋のなかのガレキや泥を取り除くという厳しい作業だが、なぜかメンバー全員が明るい雰囲気なのだ。

タノさんが宮城県石巻市に入ったのは3月31日のこと。「気仙沼で被災した友人の手伝いに行ったときに、テレビで石巻のボランティアが足りないことを知り、衝動的に石巻に足を伸ばした」という。現場を見たタノさんが感じたのは「このガレキを片付けるのにどれだけの時間がかかるのだろうか」ということだった。そして「ならば、自分も手伝いたい」と、石巻市のボランティアセンターで被災地ボランティアに登録。「アーティストとして何ができるかではなく、人として何ができるかを考えたら、思わず体が動いた」と話す。以来、タノさんは仙台から石巻に通い、ガレキや泥の撤去作業をつづけている。 

実際に現場で作業をしてみて気付いたのは、人手が足りないということだった。そこでタノさんは自身のブログでボランティアの現状を掲載。「ボランティアの現場は大変な状況だが、被災者の方とのふれあいなど楽しいことだってある。被災者の家を片付けながら、彼らの人生や思い出にふれることができる。そういった楽しさやおもしろさも伝えていきたい」と考えたのだ。

そして「ボランティアに携わるうちに、被災者の方への気の遣い方や仕事の段取りにも慣れてきたし、ボランティアセンターとの連携も密に取れるようになってきた」というタノさんは、ブログで一緒にボランティアに行ける人を募ることに。「せっかく石巻に行くのだから、ひとりでも多くの人をクルマに乗せて連れて行きたい」と考えたのだ。すると、連日のようにその声に賛同した若者たちがタノさんのもとに集まってくるようになった。「力仕事ができなければ、被災者の方の話し相手になるだけでもいい。1日でもいいし、冷やかしでもいいから参加してほしい」とタノさんは話す。 

この呼びかけに賛同した参加者のひとりは「仕事の内容は大変だが、タノさんと一緒にいると新しい発見や刺激がある。毎日参加することはできないが、週に1日くらいのペースで時間をつくって参加したい」と。このように最近ではタノンティアの蕫常連﨟が増えており、すでに延べ200名ほどがタノンティアに参加しているという。

こうしたタノさんの取り組みは新たな展開を生みつつある。タノンティアに賛同した仙台市の文化施設「せんだいメディアテーク」が、このほどタノンティアのために日曜限定で仙台―石巻間のバスの運行を開始。「タノンティア バスツアー」と銘打って、より多くの参加者を募りはじめたのだ。ちなみに、このバスツアーに参加者すると、冒頭のオリジナルロゴ入りタオルがもらえるという。また、タノさん自身はツアーのしおりや車内で歌うオリジナルソングを制作するなど、よりグレードアップしたサービス精神で仲間たちを迎え入れている。アーティストがリードする被災地ボランティアの現状、まずは一度、タノンティアのブログに目を通してほしい。 

タノンティアブログ 
http://tanonteer.taigart.com/ 


「がんばっぺ! 茨城」を合言葉に復興への一体感を生み出す!! 

茨城県では三菱化学や住友金属鹿島製鉄所などが操業停止となり、周辺のモノづくり系企業が苦境に立たされている。農水産物の風評被害も大きい。そんななかで、茨城の復興を願う有志たちが立ち上がって、「がんばっぺ!茨城プロジェクト」をスタートさせた。

「がんばっぺ!茨城」というロゴが入った缶バッジやステッカー、シール、コースター、うちわなどが急速に茨城県内外に広まっている。この取り組みの中心となっているのは、有志による「がんばっぺ!茨城プロジェクトチーム」。現在のメンバーは11名で、行政マン、NPO関係者、金融マン、製造業、デザイナーなど幅広い業種の顔ぶれが揃っている。 

缶バッジなどのアイテムはそれぞれ1個100円(シールは100枚入り、コースターは5枚入り)。売上げの約3割が茨城県への義援金となる。「がんばっぺ!」という言葉に共感した人の数だけ、義援金と「思い」が膨らんでいくという仕組みだ。

発起人のひとりであり、「がんばっぺ!茨城」のロゴマークデザインを担当した平井夏樹さん(㈲平井情報デザイン室代表取締役)によると「この企画は、震災後、『がんばっぺ!』という言葉を世界共通語にできないか、というひとりのつぶやきから始まった」と。そして、そうこうしているうちに「フェイスブックを通じてつながった仲間同士で盛り上がり、茨城、東北の復興支援が具現化していった」そうだ。

 

さっそく、平井さんたちは手作業でロゴマークを付けた缶バッジを1000個ほど制作。すると「アッという間に品切れになり、どこで手に入るのかという問い合わせが殺到した」と。しかし「ただ広めるだけでは意味がない」と、缶バッジは社会福祉法人ユーアイ村に委託し、作業訓練の一環として制作してもらうことに。ステッカーやシール、うちわは県内で被災した印刷業者に積極的に発注した。そして「そのできあがったロゴマークやシールをイロイロな商品に付けてもらい、購入者に意識を高めてもらいたい」と。

4月から販売をはじめたところ、個人の購入者はもちろん、飲食店やイベントなどでも活用されるように。また、地酒の瓶に「がんばっぺ!茨城」のシールを貼ろうといった動きも。すでに売上げは合計300万円を超えているという。さらに、「がんばっぺ!バーガー」や「がんばっぺ納豆」という冠商品まで誕生しているそうだ。 

「『がんばっぺ!茨城』というロゴマークのもと、茨城全体に一体感が生まれつつある。これを起爆剤にして、もっと茨城が元気になるようにしていきたい」と平井さんは力強く話している。

 
が んばっぺ! 茨城プロジェクト

http://ibaraki.gamba-ppe.jp/

 

今回の地震でわかった震災対策の必須アイテム

今回の震災では私たちはあらためて個人でできる津波対策の必要性を学んだ。そして避難所におけるトイレの悩みも。そこで今後の巨大地震に備えて準備しておきたいアイテムをご紹介したい。

ライフジャケット

着用していれば生存率アップ

今回の震災は津波による被害が大きかった。今後の津波対策に注目されているのがライフジャケットだ。今回の震災でライフジャケットの準備やその装着訓練などが定期的に行われていたならば、これほどの被害は出なかったはずである。少なくとも数千人規模の救出者が出たのではないかと思われる。三菱総研の主任研究員堤一憲氏も「防災頭巾やヘルメットによる頭部保護、ライフジャケットによる胸部保護と溺水回避といった比較的容易な対策の実践により、多くの尊い命が救えた可能性があることを検証し実践することが重要であろう」と提言している。

国土交通省海事局の海難事故の分析によれば、ライフジャケット着用時の生存率は85㌫、死亡率は15㌫で、着用の方が生存率が3倍高い。ライフジャケット未着用時の生存率は31㌫、死亡率は69㌫で、未着用によって死亡率が5倍に高まるという。ライフジャケットの普及、着用訓練(装着してプールや海に飛び込んでみる訓練を含む)を推進すべきではないか。

男性用エコトイレ

水なしで設置できる男性用トイレ

スイスに本拠を構えるウリマット社は、男性用エコトイレ「ウリマット」を復興支援の一環として被災地域へ寄贈するプロジェクトを立ち上げた。

このウリマットは電気も化学薬品も水も使わない環境にやさしい小便用のエコトイレ。便器内に組み込まれた特殊なカートリッジが水を使わずに尿をスムーズに下水道へ流してくれる。水を使わないとなるとニオイが気になるところだが、カートリッジの臭気を密閉する仕組みによってそうした問題も解決している。

すでに世界35カ国で販売されていて、18万台の販売実績を持つ。スイス、英国、スペインなど各国でエコ賞も受賞している。

被災地への寄贈台数は200~250台を予定。この台数は年間で約3000万㍑の節水可能量に相当するという。また1台あたり50人が使用する場合の維持費は年間3万円程度に抑えることができる。節水、節約、清潔に役立つスマートな製品といえそうだ。被災地域全域を対象とし、避難場所、学校、駅などの公共施設を想定し寄贈先を募集中。

最終更新 2011年 7月 01日(金曜日) 14:30