ガンを克服した女性ジャーナリストが子ども向けの「中国語教室」などで日中友好を促進!! 印刷
2011年 4月 12日(火曜日) 14:02

中国では眼の治療やリハビリの研究に携わってきたという厳粛氏。一度はガンに犯され生死の境をさまよったが克服。現在はフリージャーナリストとして元気に活躍中だ。また、孔子学院で客員研究員として、在日新華僑の子ども向けの中国語講座をスタートするという。そんな厳氏に北京放送東京支局長の謝宏宇氏がインタビュー、これまでの取り組みについて語ってもらった。

 

 フリージャーナリスト厳粛

(げん・しゅく ヤン・スー)  

中国北京生まれ。来日前は北京市同仁病院眼科、北京市眼科研究所、WHO中国眼科防盲センターで勤務。89年11月WHOより公派遣で、日本に研修(初来日)。その後、92年再来日。日中学院卒、東京学芸大を1年生時に就職都合で中退。中国消費者報・東京支局特派員、中日名流雑誌社編集委員・東京支局特派員記者、留学生新聞他数新聞社特約記者担当し、中国広州報業集団日本国連絡者、翻訳 / 通訳(日本語⇔中国語)などを担当。現在はフリージャーナリストとして活躍するかたわら、工学院大学孔子学院の中国・アジア研究センターの客員研究も務める 

 

 謝宏宇

しゃ・こうう シェー・グァンイー)

1972年雲南省生まれ。91年天津南開大学日本語科に入学。95年中国国際放送局(北京放送)に入局。日本語放送の時事解説、『キャッチ・ザ・北京』『暮らし情報』などの番組を担当。04年から日本語部の副部長、部長を歴任。09年10月中国国際放送局東京支局長として来日後、現在に至る

 

謝宏宇・北京放送東京支局長 中国にいた頃はどんな仕事に携わっていたのですか。 

 北京放送東京支局長

厳粛(福山和泉)・フリージャーナリスト 北京市同仁病院の眼科で看護師の仕事をしていましたが、その後、同病院に付属している「北京市眼科研究所」に移り、技師として難病の治療法の研究や手術などを行うようになりました。WHO(世界保健機関)が同所に設立した「WHO中国眼科防盲センター」の技師として、WHOの指示で全国の盲の患病率の調査をしたり、眼科リハビリの仕事に携わったりました。

WHOの調査を通じてわかったのは、視力が残っているのに手術方法やリハビリ訓練が少なく、職業を選択できない人が大勢いるということです。また、その間、私は中国初の「中国児童図形視力表」の制作にも携わりましたし、中国初の「低視外来」の開設に参与したりしました。

謝 来日の経緯を教えてください。

厳 当時、眼科のリハビリテーションは中国にとって新しい分野の仕事でした。それで、WHOからの公費派遣で、日本の「順天堂大学」の眼科研究室と「国立身体障害者リハビリテーションセンター」の眼科で研修することになったのです。最初はアメリカ行きの予定で、北京大学で英語の勉強をしていました。ところが急遽、WHOから同じアジアだし、たがい技に術面の理解があるということで、日本に行くようにという通達が出たのです。そのため、私は「北京外国語学院」の日本語科に移り、慌てて日本語の勉強を行いました。ちなみに、最初に来日したのは89年11月です。

謝 ずっと日本にいるのですか。

厳 公費による派遣だったので、技術研修が終わったら、たくさんの資料を持って帰国し、すぐに仕事に活用しました。ただ、リハビリは中国にとって新しい分野の仕事でしたから、施設や設備、社会インフラがあまり整っていませんでした。もちろん、盲導犬もいませんでした。そのため、せっかく勉強したことをうまく仕事として生かすことができなかったのです。そこで、中国でリハビリを普及させるための勉強をしようと思い、92年に再来日したのです。

謝 苦労したことはありますか。

厳 2度目の来日の際は国の後押しもなかったので、家を探すのにも苦労しましたし、生活費の工面にも四苦八苦しました。しかし、もともとポジティブな性格なので、それがそんなに苦しいとは思いませんでした。

謝 日本語はどうしましたか。

厳 とにかく一生懸命勉強しました。日中学院(日中友好会館内)でハイレベルな日本語を学ぼうとしたときは、入試結果が散々だったにもかかわらず、面接官の先生が私の熱意を認めてくれて入学することができました。そのときは、あまり寝ずにバイトと勉強に明け暮れていました。その結果、卒業時のスピーチコンテンストでは優勝することができました。努力は報われるんだと感じた瞬間でした。

謝 その後、中国の新聞『中国消費者報』の特派員として記者活動をしていたそうですね。

厳 一刻も早く眼科に関する実務経験を積みたいと思いましたが、日本の医師免許を持っていなかったので、臨床の仕事をすることができませんでした。そんな折、中国の『中国消費者報』が東京支局を立ち上げるにあたって現地特派員を募集していることを知り、応募してみることにしたのです。

謝 『中国消費者報』ではどのような記事を書きましたか。

厳 最初は医学を含む科学ページを中心に書こうと考えていましたが、いつの間にかいろんなコラムを書くようになり、社会や教育といった分野の記事も書くようになりました。また、日本の花や美しい景色、行事などの写真を撮影して送ったりもしました。

謝 そういえば、日本でガンにかかってしまったそうですね。

厳 東京支局を立ち上げたときは、バイトをしながら1日3時間も寝ないような生活を送っていました。そうした不規則な生活がたたったのか、あるとき体の異変を感じたのです。すぐに検査を受けたところ、子宮ガンだといわれました。しかし、仕事がうまく立ち上がったところでしたから、誰にもそのことを話せずにいました。

謝 死への恐怖感はありましたか。

厳 もちろん恐怖はありましたが、それよりもまずは自分の仕事をどうするかを考えました。そして、いくつかの袋を用意して、自分の仕事や身の回りのことを整理したりしたのです。その後、北京にいる兄弟たちに相談し中国に一時帰国したところ、家族からは協和病院(中国)での手術をすすめられました。しかし、親不孝だとは感じながらも、どうしてもいつかは出産を経験したいという思いがあり、子宮摘出には抵抗がありました。日中両方の医者からも手術をすすめられましたが、イロイロと考えた上で手術を受けないことを決意しました。そして、成功するかどうかはわかりませんでしたが、97年から投薬(西洋医学)や漢方による保守治療を受けてみることにしたのです。その後、9年8カ月もの間、治療を受けつづけ、国立がんセンター(日本)から�卒業�することができました。また、00年に結婚し、結婚8年目には息子を産むこともできました。

謝 現在はフリージャーナリストとして活躍しながら「工学院大学孔子学院」(東京・新宿)の客員研究員も務めていますね。

厳 フリーになって政治や教育、医療、社会といった具合に、多岐にわたる取材を行い、充実した日々を送っています。NHKと協力して制作した『激流中国・病人大行列〜13億人の医療』というドキュメンタリー番組は世界各国で高い評価を受けました。また、工学院大学孔子学院のことを知ったのは、東日本中国語講師養成セミナーに参加したときのことでした。そして、西園寺一晃学院長の考えに共感し、昨年11月頃の社会人募集に応募したのです。今後は幅広い人たちに中国語や中国の文化を教える「親子中国語教室」や「幼児中国語教室」を開催したいと思っています。そして、なかでも在日中国人の子どもへの教育に力を入れていきたいと思います。やはり子どもが母国のことを忘れてしまうのはいけませんし、大使館や国有企業の事務所の人たちからも、そういった声が多数寄せられていますから。そして日中友好に関しては、つねに日中友好の便利屋さん�でありたいと思っています。

謝 今後とも日中の懸け橋として頑張ってください。

最終更新 2011年 6月 09日(木曜日) 15:51