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在日新華僑
東方通信社発行 学苑報
パプリカ農家 |
2013年 9月 12日(木曜日) 18:24 | |
色鮮やかな赤と黄が眩しいパプリカ。この美しい野菜が日本に初めて輸入されたのは20年前のこと、いまやどのスーパーの店頭にも並んでい る。最近では赤色のパプリカにピーマンの4倍近くのビタミンA、2倍以上のビタミンCが含まれていることがわかり、注目されている。
しかし、注目されているほどには国内でパプリカを生産している農家は少ない。国産のパプリカの流通量は約2000?で、全体の1割程度しか ない。流通しているほとんどのパプリカは韓国とオランダからの輸入でまかなわれているのだ。そこで、茨城県水戸市の?Tedy 代表取締役の林俊秀を紹介したい。パプリカの専業農家だ。
俊秀はJA関連の団体でサラリーマン生活を送っていたが、03年に独立し、パプリカの生産をはじめた。「もともと農業をしたいという漠然と した気持ちは持っていたので、大学は農学部を出たが、両親の意向もあって卒業後はサラリーマン生活を選択した。だが、サラリーマン生活を送り ながらも、心のどこかに農業をしたいという気持ちがあり、思い切って挑戦することにした」そうだ。
それにしても、どうして国産品が圧倒的に少ないパプリカを選んだのか。秀俊によると「当時、パプリカを栽培している農家はほとんどおらず、 輸入頼みだった。ということは、ニッチな市場を開拓できるのではなないか考えた」そうだ。しかし、当時はパプリカの種を持っている問屋や商社 もいなかった。ニッチだから、と志したものの、なかなか見通しが立たなかった。
その後、運良く農地とビニールハウスを借り受け、オランダから種を仕入れて栽培をはじめたが、ノウハウ不足がたたって初年度の収穫率は現在 の3分の1程度にしかならなかった。
それでも、俊秀は来る日も来る日もパプリカのことばかりを考えていた。そして、ついに「適正な温度管理の状態や肥料の与え方がわかり、しだ いに栽培のマニュアル化、数値化をはかることができた」という。とくにパプリカ栽培においては温度管理がポイントになることもわかった。「パ プリカは味もさることながら、プラスチックのようなツヤと質感がなければならない。その質感を出すためには温度管理がもっとも重要になる」と 俊秀。とりわけ冬の朝は温度変化が激しいので、ハウス内の空調管理と換気に気を使うという。「ハウス内の温度が急激に変化すると、パプリカの 実にヒビが入ってしまい、売り物にならなくなってしまう」からだ。
それにしても、パプリカの家庭需要は依然として少ない。そこで、俊秀はパプリカの食べ方などを提案してみることに。そのひとつが水戸京成ホ テルの二木真人総料理長とタッグだった。現在は完成したパプリカの二色のムース、パプリカのスープ、パプリカのアイスクリームなどのレシピの 普及に取り組んでいる。さらに6次産業にも挑み、気軽にパプリカの色彩と風味を足すことができるパプリカの冷凍ペーストを開発した。
現在、パート含め20名体制でパプリカ栽培を展開する俊秀。一昨年から長男を社員に迎え、さらにパプリカの栽培と普及に力を入れている。パ プリカが水戸名物になる日もそう遠くはないかもしれない。
色鮮やかな赤と黄が眩しいパプリカ。この美しい野菜が日本に初めて輸入されたのは20年前のこと、いまやどのスーパーの店頭にも並んでい る。最近では赤色のパプリカにピーマンの4倍近くのビタミンA、2倍以上のビタミンCが含まれていることがわかり、注目されている。 しかし、注目されているほどには国内でパプリカを生産している農家は少ない。国産のパプリカの流通量は約2000?で、全体の1割程度しか ない。流通しているほとんどのパプリカは韓国とオランダからの輸入でまかなわれているのだ。そこで、茨城県水戸市のTedy 代表取締役の林俊秀を紹介したい。パプリカの専業農家だ。 俊秀はJA関連の団体でサラリーマン生活を送っていたが、03年に独立し、パプリカの生産をはじめた。「もともと農業をしたいという漠然と した気持ちは持っていたので、大学は農学部を出たが、両親の意向もあって卒業後はサラリーマン生活を選択した。だが、サラリーマン生活を送り ながらも、心のどこかに農業をしたいという気持ちがあり、思い切って挑戦することにした」そうだ。 それにしても、どうして国産品が圧倒的に少ないパプリカを選んだのか。秀俊によると「当時、パプリカを栽培している農家はほとんどおらず、 輸入頼みだった。ということは、ニッチな市場を開拓できるのではなないか考えた」そうだ。しかし、当時はパプリカの種を持っている問屋や商社 もいなかった。ニッチだから、と志したものの、なかなか見通しが立たなかった。 その後、運良く農地とビニールハウスを借り受け、オランダから種を仕入れて栽培をはじめたが、ノウハウ不足がたたって初年度の収穫率は現在 の3分の1程度にしかならなかった。 それでも、俊秀は来る日も来る日もパプリカのことばかりを考えていた。そして、ついに「適正な温度管理の状態や肥料の与え方がわかり、しだ いに栽培のマニュアル化、数値化をはかることができた」という。とくにパプリカ栽培においては温度管理がポイントになることもわかった。「パ プリカは味もさることながら、プラスチックのようなツヤと質感がなければならない。その質感を出すためには温度管理がもっとも重要になる」と 俊秀。とりわけ冬の朝は温度変化が激しいので、ハウス内の空調管理と換気に気を使うという。「ハウス内の温度が急激に変化すると、パプリカの 実にヒビが入ってしまい、売り物にならなくなってしまう」からだ。 それにしても、パプリカの家庭需要は依然として少ない。そこで、俊秀はパプリカの食べ方などを提案してみることに。そのひとつが水戸京成ホ テルの二木真人総料理長とタッグだった。現在は完成したパプリカの二色のムース、パプリカのスープ、パプリカのアイスクリームなどのレシピの 普及に取り組んでいる。さらに6次産業にも挑み、気軽にパプリカの色彩と風味を足すことができるパプリカの冷凍ペーストを開発した。 現在、パート含め20名体制でパプリカ栽培を展開する俊秀。一昨年から長男を社員に迎え、さらにパプリカの栽培と普及に力を入れている。パ プリカが水戸名物になる日もそう遠くはないかもしれない。
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