「児童交流」を通じて 日中の友好関係を向上させたい!! |
2011年 8月 02日(火曜日) 16:01 | |
大の子ども好きである彭鵬氏は、日本で日中児童交流協会を設立。草の根的な児童交流を掲げて、地道に交流活動を展開している。子どもたちが描いた絵をこのたびの大震災で被災し、避難所生活をしている住民に届けるといったボランティア活動にも取り組んでいるという。そんな彭氏に人民日報東京支局長の于青がインタビュー、児童交流に対する思いを聞いた。 〈ゲスト〉 彭鵬(ほうほう) 東方通信社翻訳者、日中児童交流協会会長 〈プロフィール〉 1975年河北省保定市生まれ。96年自学試験(中国独自の大学制度)にてマスコミュニケーションを専攻。03年広島大学文学研究科人文学専攻を研究修了。05年広島大学大学院文学研究科人文学専攻博士課程後期を卒業。東方通信社で翻訳業務に携わりながら、日中間の児童交流を目的とした日中児童交流協会の会長を務める。 〈インタビュアー〉 于青(う・せい) 人民日報東京支局長 〈プロフィール〉 1983年中国社会科学院大学院新聞学部卒業。86年人民日報国際部。88年に1度目の日本駐在を経験した後、98年には2度目の日本駐在。06年から3度目の日本駐在となり、現在に至る。于青・人民日報東京支局長 日本にはいつ頃から興味を持っていましたか。 彭鵬・東方通信社翻訳者、日中児童交流協会会長 私の父は河北大学で半導体の研究をしており、私が12歳くらいのときに日本の豊橋技術科学大学で1年間ほど研究に携わっていました。父は私に何度も日本から手紙をくれました。日本の桜の美しさや科学技術のおもしろさなどが書かれていました。それを読んでいくうちに、自然と私は日本に憧れを抱くようになったのです。 于 来日した経緯についてお聞かせください。 彭 父の紹介もあって、01年に広島大学に研究生として私費留学する機会に恵まれました。日本と中国の文学に興味があったので、主に比較文化の研究を行いました。そして、03年には広島大学大学院に進学して、江戸時代の小説の研究などを行いました。 于 中国にいた頃はどんな勉強をしていたのですか。 彭 実は私は大学入試に失敗したため、「自学考試」という制度のもとで教育を受けました。これは大学進学ができなかった人が大卒者と同様の教育や資格を得るための制度で、私はマスコミにケーションを専攻しました。 于 広島での生活はいかがでしたか。 彭 私費留学だったこともあって、金銭的な苦労が多かったです。大学で勉強するかたわら、清掃業や飲食店、ときには農家のお手伝いなどのアルバイトをつづけていました。留学生の多くはそんな生活を嫌がりますが、私はアルバイト生活のおかげで、いろんなことを学ぶことができ、成長することができたと思っています。 また、私は03年に結婚し、翌年には妻を広島に呼びました。私が大学に通っている間、妻は働きに出て生活を支えてくれました。その後、私が卒業した後は妻が広島大学に入り、その代わりに私が働くことにしました。支え合って生きていくことの大切さを実感しました。 于 かなり苦労したのですね。 彭 それを苦しいと思ったことはありません。いろんな仕事を通して、いろんな日本人と出会うのがとても楽しかったからです。そして、その都度、日本人と自分の間に何かしらの共通点を発見することができ、国や文化の違いを超えてわかり合えることができると確信しました。そうした確信を『国と人を同一視するべからず―日本学研究の人間的方向』という論文にまとめあげ、『国際日本学』という学術系の冊子に掲載されたこともあります。 于 大学卒業後はどのような進路を選んだのですか。 彭 妻が広島大学を卒業するまでは、東広島日中親善協会からの紹介で中国語教師のボランティアをしながら、マツダの工場で中国人研修生・技能実習生の通訳を行ったりしていました。 于 上京したのはいつ頃のことですか。 彭 妻が大学を卒業後、東京のIT系企業に就職を決めたのを機に上京しました。私は映像機器や空調・エアコン架台の営業マンなどの仕事に就いたのですが、どうにも営業の仕事が肌に合わず、最終的には『新民晩報』の日本語版スタッフとして働きました。しばらくして編集長を任されたのですが、広告収入の減少とともに日本語版は廃刊してしまい(まだ廃刊してないです)、現在は東方通信社で主に中国国際放送局と東方通信社が共同制作している『Japan-Online』の翻訳業務を担当しています。かねてから日中間の橋渡し的な仕事がしたいと思っていたので、非常にやりがいを感じています。 于 日中児童交流協会の会長を務めているそうですが、協会を立ち上げた経緯についてお聞かせください。 彭 私は高校生のときから子どもが大好きで、よく近所の子たちと一緒に遊んだりしていました。その思いから中国にいた頃には児童関係の記事をあつかう『中国児童報』という新聞で、フリーライターとして取材活動やイベントの開催などをお手伝いしてきました。もちろん、来日してからも子ども好きは相変わらずだったのですが、ふと日本と中国の子どもたちを交流させられるような機関がないことに気付いたのです。そして、居ても立ってもいられなくなり、09年12月に何人かの仲間たちと一緒に日中児童交流協会を立ち上げたのです。 于 現在はどんな取り組みを行っていますか。 彭 日本人と中国人の子どもたちと一緒にバーベーキュー大会を開催したりしています。また、東日本大震災の後は、富士見市日中友好協会の支援のもと、福島の高校に支援物資として文具を持って行ったりしました。今度は茨城の避難所に子どもたちが描いた応援の絵を持って行く予定です。 于 今後はどのような活動を展開する予定ですか。 彭 日本の子どもたちを中国に、中国の子どもたちを日本に連れて行き、その先々で交流活動を行っていきたいですね。とくに日本と中国には多数の友好都市があるので、その関係を生かした児童交流を目指していきたいと思います。 于 日中の児童交流の第一人者になってください。
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最終更新 2011年 8月 05日(金曜日) 16:50 |