拍摄北京“胡同” 促进中日文化交流 |
2012-01-22 17:41 | |
〈ゲスト〉
井岡今日子(いおか。きょうこ)
中国名:周橋(しゅう・きょう)
〈プロフィール〉
中国北京生まれ。1990年来日。94年横浜ファッションデザイン専門学校を卒業。98年NPO法人宋慶齢基金会日中共同プロジェクト委員会理事。00年TPOフォトスクール修了。02年東京八王子で「中国写真二人展」。03年東京銀座ニコンサロンで「北京胡同」個展。04年中国上海市少年宮で「日本幼児の春夏秋冬」個展。05年東京新宿ち大阪のニコンサロンで「胡同リビング・スペース」個展。07年中国山西省平遥国際フェスディパルで「北京・東京の胡同」個展。2010年日本写真協会会員。2011年3月NPO法人日中写真家交流協会副理事長に就任
〈リード〉
中国・北京市内に点在する「胡同(ルビ・フートン」と呼ばれる下町。井岡京子氏はその街並みに惹かれ、03年から撮影しつづけている北京出身のカメラマンだ。現在はカメラマンとしての活動のほか、日本と中国の写真家を交流させる文化交流事業にも力を入れているという。来日してからどのような経緯で、こうした取り組みを展開するようになったのか。北京放送東京支局長の謝宏宇氏にインタビューしてもらった。
〈本文〉
謝宏宇・北京放送東京支局長 来日するまではどのような仕事をしていたのですか。
井岡今日子・カメラマン 85年から中国写真家協会に勤務し、暗室での現像作業や日本製のカメラの販売などを行っていました。また、自分で写真を撮影することも大好きで、時間ができるとニコンのF4などで写真を撮ったりしていました。
謝 どうして日本に興味を持つようになったのですか。
井岡 私の母親は中国写真家協会の国際部部長だったことがあり、80年代に日本の写真家が訪中した際には彼らを案内したりしていました。おかげで、私自身も日本の写真家や彼らの作品に接する機会ができ、しだいに日本に興味を持つようになったのです。
謝 来日してからはどんな生活を送っていましたか。
井岡 90年に来日して、92年までは横浜のファッションデザイン専門学校で勉強しました。そのときは写真を止めて、デザインの仕事に挑戦しようと思っていたのです。
謝 どうしてデザイナーの道を選ぼうと思ったのですか。
井岡 最初は日本の大学で写真を勉強したいと思っていましたが、北京にいたときから付き合っていた男性(現在の主人)が慶應義塾大学の修士課程にすすむことになったので、まずはお金を稼ごうということになったのです。そして思いついたのが手に職がつきそうなデザイナーでした。でも、実際にプロのデザイナーと接するうちに、なかなか家庭生活と仕事との両立が難しいということを知り、最終的にデザイナーへの道は断念しました。
謝 ご主人はどちらのお生まれなのですか。
井岡 新疆ウイグル自治区出身の漢民族です。私たちは彼が北京の人民大学に通っていたときに知り合いました。その後、日本で結婚し、97年にはふたりとも帰化して日本人になりました。主人も日本企業で就職していましたし、私もまだまだ日本にいたいという思いがありましたから。
謝 その後、ふたたび写真に取り組むようになったのですね。
井岡 そうです。自分が好きなものは何かと考えたら、やっぱり写真だと思うようになったのです。そこで、最初は東京・八王子の写真クラブで仲間と一緒に写真を撮ったりしていたのですが、99年には縁あってTPOフォトスクールで写真技術を学ぶ機会を得ることができました。そして、そのときの先生からのアドバイスで、北京の胡同(ルビ・フートン)をテーマにした写真を撮影することにしたのです。
謝 胡同について教えてください。
井岡 胡同は元の時代につくられた細い路地のことです。そこには井戸を中心にして、四合院と呼ばれる家屋が立ち並んでいます。四合院の広さは100平方㍍ほどあり、昔は皇帝や大臣の使用人などが住んでいました。それが毛沢東の時代になると国有化され、90年代になると外資系企業の社員たちが住むようになりました。今では賃貸に出されたり、宿泊施設として使用されている四合院も数多くあります。見た目はレトロ感タップリなのですが、好立地にあることから今では1000万元から2000万元で取引されています。
謝 どうして胡同をテーマに選んだのですか。
井岡 北京の開発がすすむのと同時に、多くの胡同が改装されたり、取り壊されたりしています。とくに北京オリンピックの開催が決まってからは、急激に取り壊されるようになりました。ですが、北京生まれの私にとって、胡同は北京の原風景でもあり、できることなら残しておきたい存在でした。そこで、失われつつある胡同のある景色を撮影しつづけたいと思うようになったのです。
謝 そうして撮影した胡同の写真が評価され、話題になったのですね。
井岡 ニコンサロンの方に撮影した写真を見てもらったところ、03年9月に東京・銀座のニコンサロンで展示されることになったのです。そこで、翌年も北京に行き胡同を撮影して回ったのです。そのときは胡同の外観だけでなく、家のなかや住民たちの生活ぶりにもフォーカスしてみたのです。すると、今度は新宿と大阪のニコンサロンで展示されることになったのです。もちろん、それ以降も北京に行くたびに胡同を撮影しつづけています。北京に胡同がある間は撮影をつづけていくつもりです。
謝 現在は日中の文化交流にも力を入れているそうですね。
井岡 日中写真家交流協会の副理事長を務め、日中間の文化交流事業などを行っています。日本の写真家たちを中国に連れて行って案内したり、中国の写真家を日本に連れて来たりすることで、たがいの文化交流や技術交流をはかっているのです。写真には人物や景色はもちろんのこと、その国の文化などがあらわれます。写真を通じて、日中両国がおたがいの国のことをることができればと思っています。
謝 これからも胡同の撮影をつづけながら、日中の文化交流に貢献してください。
〈受访者〉 井冈今日子 中国名:周桥 北京出生。1990年来日。94年横滨时装设计专门学校毕业。1998年担任NPO法人宋庆龄基金会中日共同项目委员会理事。2000年结束TPO照相学院的进修生涯。2002年在东京八王子举行中国照片二人展。2003年在东京银座尼康沙龙举办北京胡同展。2004年在上海市少年宫举办“日本幼儿春夏秋冬”摄影个展。2005年在东京新宿、大阪的尼康沙龙上举办“胡同摄影个展”。2007年在山西省平遥国际活动中展出“北京・东京的胡同”摄影个展。2010年成为日本摄影协会会员。2011年3月就任NPO法人日中摄影家交流协会副理事长。
谢宏宇・中国国际广播电台东京支局局长 您赴日前从事什么工作呢? 井冈今日子・摄影家 1985年开始我在中国摄影家协会任职。主要工作内容是在暗室里进行洗像以及销售日本制的照相机。我自己也喜欢摄影,因此业余喜欢用尼康F4等进行摄影活动。 谢 为什么对日本产生兴趣了呢? 井冈 我母亲是中国摄影家协会的国际部部长。80年代日本的摄影家访问中国的时候,我妈妈接待了他们。由此,我也有幸和这些日本的摄影家们进行了交流,并鉴赏了他们的作品。自然也开始对日本产生了浓厚的兴趣。 谢 谈谈您来日后的生活状况? 井冈 1990年来到日本,1992年为止一直在时装设计专门学校学习。那时候我停止摄影,从事设计方面的工作。 谢 为什么选择设计的道路呢? 井冈 我当初是想在日本的大学学习摄影,不过当时我在北京认识的男朋友(现在的丈夫)准备在庆应义塾大学上硕士研究生,于是我开始打工支持他。后来打算从事容易找到工作的设计工作。但实际上从事设计工作很难使家庭生活和工作两立,最终我选择了放弃。 谢 您爱人是什么地方人? 井冈 新疆维吾尔自治区的汉族。我们是在人民大学学习的时候相识的。后来在日本结婚,我于1997年归化为日本人。我爱人在日本企业就职,我也希望今后继续在日本生活。 谢 后来您开始从当时摄影活动了。 井冈 是的。如果说我的爱好,那就是摄影。刚一开始我和东京八王子的一些朋友一起开始摄影,1999年缘分到了,TPO照相学院学习的机会来了。后来在老师的提议下,我开始拍摄北京的胡同。 谢 请您谈谈胡同。 井冈 胡同建设始于元代。当时就出现了四合院这样的建筑格局。四合院大约面积为100平方米。以前都是皇帝和大臣的佣人们的住居。毛泽东时代国有化,上世纪90年代开始有一些外资企业的员工入住。现在用于出租的四合院也不少。好的地带的四合院价格在1000万元到2000万元之间。 谢 为什么选择胡同这个摄影主题? 井冈 北京开发的同时,许多胡同被改装破坏,特别是在北京奥运会的时候,破坏很多。我是北京人,我希望把这个特色建筑留存下来。于是我选择拍摄胡同。 谢 后来您的作品获得各界认可。 井冈 2003年9月我的摄影作品在东京银座展出。第2年我再次去了北京拍摄胡同。后来我去新宿和大阪展出,就这样我不断拍摄北京的胡同,然后不断在日本展出。 谢 您现在开始倾力促进中日间文化交流了,对吗? 井冈 我现在担任日中摄影家交流协会副理事长,从事日中间文化交流事业。比如带领日本摄影家去中国,或者带领中国摄影家来日本,互相进行文化交流和技术交流。摄影也属于国与国之间的文化交流项目。通过摄影,可以使两国间对彼此进行深入了解。 谢 期待您在这个领域继续获得进步,同时为中日文化交流做出更多贡献。
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最后更新于 2012-03-22 17:51 |